★無事帰隊いたしました★

やまたか

2011年03月26日 14:46

お久しぶりです。忙しくて手をつけることができませんでした。

半月分のやまたか活動報告です。


あの日、私は4月からの勤務地で事前研修中でした。

次の日ワッチさんと成田ゆめ牧場でのキャンプをひかえ
仕事にも一層の気合が入りフガフガしている時でした。

2時46分 大地震が発生しました。

即、フライト中のクルーにランディング中止の無線を打ちました。
上空からでも日本が激しく揺れ、地上が壊れていくのがはっきりと分かったそうです。

勤務地の周りではあちらこちらで黒煙が噴出し、大火災が発生していました。
隣の工場では「2階の天井がすべて崩落し従業員数百名のうち5名が逃げ遅れている。」と
女性が泣きながら飛びこんできました。

管内消防へ通報するとともに
正隊員ではない私含め3名が無理をしないことを約束し、隊長から救出命を受けました。

幸い私以外にもCSRM(狭隘空間救助)のコース終了者がいたため迅速な活動が出来、重軽症者はいたものの
死者は出さずに全員救出を完了することが出来ました。

その時点で研修は解散となり、研修者3名は握手を交わし所属へと散って行きました。


車の中で聞いたラジオで、全容が分かるにつれ栃木県も被災地なんだと再度腹をくくりました。

ワッチさんが連絡をくれ、キャンセルの話を一瞬でしました。 {繋がらない中、本当にありがとう。落ち着いたらまたよろしくね。}


所属へ着いたら即臨戦態勢で、速攻出動でした。 閉じ込め救助や火災が後を絶ちません。
この時点で家族や家がどんな状態かは未確認でした。 というより考える暇もなかった。

次の日、ネモヤンが第1陣栃木県緊急援助隊発動で岩手へ
向かいました。高度救助資器材を持つやまたかチームは数名づつ第5陣までの編成で地元を守りつつ命を待ちました。

そして家族の無事も分かり、家は多少の被害で済んでいることも把握でき仕事に没頭できました。

数日後、第1陣がボロボロになって帰隊、完全にPTSD(トラウマ症候群)になっている。
忙しくてネモヤンとも話せずに・・お疲れも言ってあげれなかった。  ゴメン。

発災から数十日後、第4陣でやまたかにも命が、岩手へと向かいました。

活動方針も変わり重機投入。先代援助隊のおかげで生活には不自由はありませんでした。

しかし、非常に寒かった。この時期なのに横殴りの雪、風。そんな中でも今まで活躍してきたアウトドアギアが
僕らを守ってくれました。やっぱりアウトドアギアは最高です。


活動開始から数日後、津波で父を亡くし、昨日葬儀が終わったたという中年のおじさんが今、解体作業中の建物に近づいてきて、「父が毎日書いていた10年記を2冊見つけてくれんか。」というので、私は数十分の猶予をオペレーターからもらい
捜索し、がれきの中から1冊のみ発見することが出来ました。

中を確認すると日付は3月10日で止まっていました。このときは次の日にこんなになるなんて想像もしてなかっただろうに
と、胸を締め付けられる思いをしました。

泣いて喜ぶおじさんにかける言葉を探していると、丁度黙とうの時間になりました。

2時46分 

私はこの職業について初めて現場で泣きました。

周囲はがれきの中に様々な生活感を垣間見ることが出来、大勢の人が普通の生活を送っていたことを見ることが出来ました。

特に私は3児の父ということもあり、子供関係の品々には胸を引き裂かれる思いをしました。


阪神淡路島の大震災では復興に15年がかかったといいます。

今の技術を投入し、全国民が協力し合えば早期復興が見込めると思います。

国民の皆さま協力して最強日本を早期に立ち直らせましょう。


そして10年後、またあの地を見に行こうと決めました。



そして無事に私も帰隊いたしました。

発災から今までの間に長男の卒業式がありました。

もちろん参加は出来なかった。・・・・父親なしの卒業式に長男坊はパパは助けに行ってるからね。ママがいればいいや。

と言っていたそうです。 見てみたかったが、まづは国民を守ることが私にかせられた使命だから。

今は無事に家族のもとへ帰れた充実感でいっぱいです。


これからがJAPAN国民の力の見せ所ですから。


ガンバろう。


急いで書いたんでバラバラだな。誤字脱字はおおめにみてちょ。































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